由義寺(ゆげでら)の塔の物語
【講師】 大阪府 八尾市 魅力創造部観光・文化財課 藤井 淳弘(写真) 由義寺(ゆげでら)は弓削道鏡と称徳天皇が造営に係わった寺院で、弓削氏の氏寺である弓削寺が前身とされます。 『続日本紀』に「由義寺」という名前の寺院があることが記されていましたが、その後の所在は不明で、幻の寺とされてきました。 しかし、平成29年(2017)に巨大な塔基壇跡が発掘され、由義寺の存在が明らかになり、平成30年(2018)には国史跡に指定されました。 史跡整備に向けた最新の調査成果をもとに、西京の官寺に位置づけられる由義寺の実態に迫ります。 1.由義寺を取り巻く歴史 2.由義寺の実態に迫る 3.史跡由義寺跡の将来像 大阪府 八尾市ホームページ「由義寺跡 国史跡指定に」より 学識者のコメント 瀧浪貞子 (八尾市文化財保護審議会委員・京都女子大学名誉教授) 弓削氏の氏寺であった弓削寺は、一族の道鏡が孝謙太上天皇に抜擢されたことによってクローズアップされるようになる。そして、弓削宮とともに文字を「由義宮」・「由義寺」に改め、近辺の宅地を買収し壮麗な寺院として拡張整備される。孝謙は由義の地を平城京に匹敵する都にしようとしたのであり、由義寺はさしずめ由義宮の“東大寺”であったといってよい。孝謙(重祚して称徳天皇)にとって由義寺は、女帝と法王道鏡とによる共治体制、神仏習合政治を確立する手段であり、「由義宮」・「由義寺」はその拠点づくりでもあった。 このように政治的・文化的に重要な意味を持ちながら、「由義宮」・「由義寺」については『続日本紀』に具体的な記事が見えないことから、これまで「幻の宮」・「幻の寺」とされてきた。しかし、昨年からの発掘調査の結果、由義寺の遺構が確認され、しかも発見された塔の基壇は東大寺には及ばないものの、大安寺に匹敵する巨大な七重塔を伴っていたことが明らかとなった。 道鏡の時代はわずか4、5年で終わってしまったが、称徳・道鏡の存在が良くも悪くもその後の歴史を方向づけたことは確かである。その意味で、今回、国史跡に答申されたことはまことに意義深い。これまで殆ど評価されることのなかった「由義寺」を歴史の中に位置づけ、その役割と意味を明らかにすることによって「由義宮」に対する理解を含め、新たな古代史像が浮かび上がってくることは間違いない。